
僕がアラビア半島の建設現場から親しい友達宛に書いていたニュースレターからの一部改編再録。
「正統、現場でのお正月の過ごし方」1987年1月10日
酒もなく昼間は25〜30℃まで気温のあがる現場にもお正月は訪れます。
12月31日は仕事も半ドン。強い陽射し、海の上の入道雲、キャンプ(現場のプレハブの居住区)を囲む土漠に、時差の関係で明るい午後3時に短波ラジオから紅白歌合戦が流れてくるのは、なんとも不思議な感じです。
それを聞きながらタイ米でモチつき。臼は半分に切ったドラム缶にコンクリートを流しこんで、鉄のタライをはめたもの。
夜は土木、機械、アドミ、電気、計装などの各担当に分かれ日本人の宴が開かれます。夜11時。使われなくなったボイラーを切って、表面にナットをいくつも溶接して作られた鐘が鳴ります。108つ目。1986年も終わり、1987年です。
朝、日本に電話する人多し。砂が空を舞うと電波が途切れがちだけれど、それでも家族の肉声は聞きたいものだ。
正月休みは元旦と2日だけ。ビリヤード大会、土漠ゴルフ大会、コンクリート製のコートでのテニス大会、麻雀大会など、この時だけは完全リフレッシュです。さぁ、3日からはまた残業だ。
今日も世界の色々な建設現場で働いている人たちがいるはずだ。良いお正月を。
▼デリー発アイルランド共和国北部ツアー
Derry Blue Badge Guide
デリー発でアイルランド共和国のイニシュオウエン半島(Inishowen Peninsula)を回る半日ツアー、1日ツアーなどを行なっている。車を1台借りてのツアーなので、人数が多ければ一人当たりの費用は安くなる。Townがトウンとかトインに聞こえるような発音の癖を理解してしまえば、説明は分かりやすく、とても親切。
▼アイルランド共和国から北アイルランドへの入国
共和国から北アイルランドに路線バスで入ると、どこで境を越えたのか分からない。いつの間にか、速度制限の表示がキロメートルからマイルに変わり、標識の色やデザインが変わっていて、北アイルランドに入っていたことに気が付く。逆も然り。北アイルランドに入ってしばらくして、バスがパトカーのような車に止められて、パスポート、ビザのチェックがあった。
尚、両国の間のフェンス、検問所、税関が撤去されたのは、北アイルランドの和平プロセスが進展し、北アイルランドから英軍が撤退した2007年、わずか2年前のことだ。
▼Doagh Famine Village
アイルランド共和国のイニシュオウエン半島にあり、車でないと行けない。ここが含まれているツアーを探すかレンタカーを借りて行く。
19世紀のアイルランドの大飢饉についての展示施設。最後の部屋は北北アイルランドのカトリックの人達が公民権を求めての1981年のハンガーストライキ(その前の1972年の血の日曜日事件)、1998年から始まり、2年前の英軍の撤収に至って一段落した北アイルランドの和平プロセス(Peace Process)についての展示で、それを見るだけでも訪れる価値がある。但し、最後の展示室は、隠れ家を模した展示室なので、なかなか入口が分からないのでご注意。
http://www.doaghfaminevillage.com/
▼デリー城壁ツアー
A Walking Tour of Historical Derry
http://www.derrycitytours.com
(Martin McCrossan Award Winning Tour - City Tours)
デリーのツーリストインフォメーションの入口外で一時間でデリー城壁の上を徒歩で回るツアーの参加者を募っていて、丁度時間がぴったり合ったので、参加した。
17世紀のロンドン・ビジネスマンを尖兵としてのイギリスによるアイルランド植民地化の歴史、17世紀のカトリックによるデリー包囲The Siegeとそれを勝ち抜いたプロテスタント、2年前までの英軍撤退までを教えてくれる。説明は英語で、しかも早口なので出来ればlonely planetを読んで予習してから参加すると良い。予習しておけば早口の説明でも単語が拾えるので、理解度が増す。ツアーに参加した後に読むだけでもツアーで説明されたことが良く分かる。
▼北アイルランドにおける公民権運動
アメリカでのキング牧師のワシントン大行進(I have a dream.の演説はこの時)に触発された1960年代からの北アイルランドでの公民権運動について理解したいならThe Museum of Free Derry - The National Civil Rights Archive
http://www.museumoffreederry.org/
を訪れるべし。デリー城壁のすぐ北西、Bogsideと呼ばれる地区にある。今は、少なくとも昼間は安全な地区だ。
博物館の見学の前後にBogsideツアーと言う徒歩ツアーに参加して1972年の血の日曜日事件の跡をたどると良い。北アイルランド紛争は最初からイギリスからの独立を求めていたのでは無く、カトリックを中心とする貧しい人達、イギリスの植民地として抑えられていた人達(この中には長老派やプロテスタントの中の無産者階層の人達が含まれる)が公民権を求めていただけだとかの事実を僕はここで知った。
Museumの人に将来北アイルランドは共和国と統一されるのかと聞いてみた。「2年北アイルランドは住民投票でイギリスに残ることになった。将来、再度住民投票が行われるかもしれないが、それは先のこと。和平プロセスは対話を通じた説得のプロセスであり、お互いが納得するように時間を掛けて対話を継続していく。」との趣旨の回答が静かに返ってきた。
と言うチベット関連情報サイトを見つけた。そこで以下のイベントがあることを知った。行ってみようかな。
11/8 ミニシンポジウム「チベット人ジャーナリストと見る『聖地チベット』展」@早稲田
■日時:2009年11月8日(日)午後2時から4時半
■場所:新宿区立榎町地域センター4階多目的ホール(新宿区早稲田町85)
■参加費:700円
■主催:ノルブ・クリエイト
■問い合わせ:090-7108-1913
■予約不要
アイルランドの国内でアイルランドを案内する仕事をしている人が、わざわざ「自分はイギリス人だ」と言ったことに、何となくアイルランド人と違って私は…と言うニュアンスを感じてしまった。そしてhateの対象にpassionが含まれていたのが、気になっている。
この呟きの後は、何事もなかったようにガイドを続けた運転手にかかってきた電話はどんな内容だったのだろうか。
25年前の旅と違うのは、やっぱりインターネットの存在。25年前に同じザックでヨーロッパを回ったときはトーマスクックの鉄道時刻表と地球の歩き方だけ持って、宿は着いてから探すことが多かった。旅行代理店に手配して貰わずに自力で宿を確保しようとすると、日本から事前に予約したり探すのには労力が大変だった。そのため、冬の北欧で危うく宿が見付けられなくなりそうなこともあった。
今回は、インターネットのお陰で事前にB&Bなどを予約することができ、アイルランドでの移動の為のバスの時刻表も事前にダウンロードすることができた。現地でのバスツアーも事前に予約出来た。現地についてからの宿泊予定変更なども成田で借りた携帯電話でできた。25年前はデンマークの友人との待ち合わせ場所と時間を決めるのに日本を出る前に凡その予定を手紙でやり取りして、その後イギリスかどこかでコインを握りしめて公衆電話から電話したのだものね。大変だった。コペンハーゲンの駅の時計の下で会えたときの感激はひとしおだったけれど。現地でのツアーも25年前は着いてから探したり申し込んだので時間の無駄が大きかった。今回はとても効率的。
往復の航空券手配と全体のプラン作成にはアイルランド旅行専門の株式会社アイ・シー・ティーに大変お世話になった。助言は非常に的確だった。
http://www.ict-jc.co.jp/
持って行ったガイドブックなどのそれぞれの特色、使い勝手で感じたことは次の通りだ。
それぞれの特徴は次の通り。
・DK EYE WITNESS TRAVEL GUIDES-IRELAND(2004年Reprinted版)
イギリスで出版されている写真と図版を多用したガイドブック。遺跡や建物の外観、地域の概要を視覚的に把握するのに役だった。
・lonely planet-Ireland(8th Edition, Jan 2008)
アメリカで出版されているバックパッカー向けのガイドブック。情報量が豊富。地球の歩き方には載っていない、洗濯屋、インターネットカフェなど長期旅行者に不可欠な情報が満載。又、アイルランド近現代史の説明も詳しく、これが無ければデリーの城壁を徒歩で一周するツアーなどの内容はさっぱり理解出来なかったと思う。BogsideにあるPeople's Galleryという壁画を描いた3人へのインタビューも載っている。地図は有る程度大きな街のものしか載っていないが、略図でないのでとても実用的。パブや夕食の場所を探すのにもフル活用した。載っていたパブ、レストランに大外れは無かった。難点は文字が小さく、元バックパッカーが老眼鏡や虫眼鏡無しに読むのが少々辛い点。ガイドブックを一冊だけしか持って行けないとすれば、これを選ぶ。索引も充実。
・地球の歩き方
アイルランドの歴史についてもコンパクトに纏められており、アイルランド全体や各地の概要を掴むには良かった。実用の面と現代史の理解の面では lonely planetに比べ非常に物足りなかった。地図もカラーで全体の位置関係の把握には良いが、略図のため見ながら歩いたり宿の位置を見付けるのには少々使いにくかった。
・聴いて学ぶ アイルランド音楽
パブでトラディショナル音楽を聴く際にこの本を読んで得た知識が大きく役立った。また、あるパブでは伝統音楽好きで自身も演奏するというデンマーク人旅行者とこの本を得た知識のお陰で色々と会話をすることができて楽しかった。
ある時、現場の同年代の日本人エンジニア達と国外で休暇を過ごすことになった。飛行機のチェックインを終わらせて出国審査を通過しようとした。僕だけ出国審査を通して貰えなかった。理由を聞いた。パスポートに押されている一時出国・再入国ビザの発行日付が未来の日付なので無効だと言う。「現にビザがパスポートに捺印されていて、ビザが発行されているのは明らかだから、出国させて欲しい。」「いや、未来の日付だからまだ有効では無い。出国は認められない。」飛行機の出発の時刻が迫ってくる。市内にある勤め先のプロジェクト事務所に公衆電話で連絡を取って相談したり、係官に行くように指示された空港外のビザ関係の事務所に行って掛け合ったりした。最終的には、出国審査官から条件付きで出国を認めて貰い、休暇に出掛けることが出来た。
同じ頃、他の中東の国の中には、やはり出国にはビザの取得が必要で、かつ契約先の国営企業からの許可を取らないと出国ビザの申請ができないという国もあった。
パスポートは無条件に国と国の移動を保証してくれるものでは無い。入国だけではなく、出国することにもビザという形でのその国の許可を取らなければならない国があり、そして、それは不思議でも何でもなかった。
料理も美味しい。
姉妹店ラウンドストーンが天王洲アイルにある。
店のサイト
http://www.avalon-intl.co.jp/shannons/
オーナーの小松さんのインタビュー。日時は不明。
http://sabrd.alc.co.jp/ir/feature/intw/02.html
出張に行く前に勤め先の先輩達から「あそこは気温が高いけれど、湿度が低いから日陰に入れば、日本の夏より楽だよ」と言われていた。違った。日差しを避けようと入った駐車場の日陰で息を吸ったら、胸の中に熱い空気が入って来た。気温は40度かそれを少し上回っていた。
サウジアラビア、紅海沿いの道路脇の土漠に大型トラック、多分10トン車かそれより大型のトラックが止まっていた。その脇で運転手が小さな絨毯を敷いてメッカの方を向いて祈っていた。日没前だった。美しいと思った。1987年か1988年のこと。季節は覚えていない。
ルーマニアのブカレストを訪れたのは、1991年の10月。実際には1989年12月にあったのチャウシェスク政権崩壊の際の激しい銃撃戦が、つい数ヶ月前のことかと思うほど、中心部には生々しい傷跡が残されていた。市の中心部の広場の芝生には、木の板で作られた十字架が立ち並び、花が捧げられていた。銃弾で壁が崩れかけた建物もあった。エネルギーは不足し、暖房の入っていない博物館は、私と同行者がいる部屋だけ、部屋の隅にいる係員によって電気がつけられ、私たちが部屋を出ると係員は電気を消してじっと次の客を待っていた。中央駅には浮浪児がたむろしていた。チャウシェスクの子どもたちと言う言葉を知ったのは、この頃だ。
そんなブカレストの旧市街唯一の目抜き通りを歩いていた時、ふと右の路地に視線が向いた。教会が見えた。正教の教会だ。カトリックやプロテスタントの教会と異なり大きなガラス窓は無い。教会の内部は薄暗く、顔以外を金属板で覆われたイコンが何枚も飾ってあった。入口の外には、燈明ぐらいの小さなろうそくが何本も何本も灯っていた。その一本に向かって若い女性が静かに祈りを捧げていた。